サンパウロからの小話09 狂走車(A 鎌谷)

 車での遠出がまだ平気な友人との会話。

「タンキ村の道がアスファルトになったって本当?エサ工場当りまで舗装になった?」「ううーん、ずっと奥の奥まで全部だよ」

 そうかあの道全部が舗装されたのか、と年月が経過したのを改めて実感した。

 エサ工場の前で道は二つに分かれている。その何れを行っても、フェルナン、ジーアス街道に出られが、人は自分の好みに応じて何れかを選んでいた。

 私がその工場勤務の頃は、道はまだ土道。雨の少ない時期は土埃がひどく、車が通った後は前が良く見えない。狭い道を危険覚悟で先行車を追い抜くか、別の道を選ぶしかない。

もっとも、車を暫く止め置けば、土埃もその内に収まるのだが、何故か人は一度ハンドルを握ると、そういう行動は取らぬものらしい。

 コチア産業組合が、フランゴ(肉用鶏)飼育に進出すると決めた時から、その村はフランゴの親、即ち種鶏を飼育し、種卵を生産して貰おうと、選りすぐりの人達を以って村が作られていた。この計画を成功さすには、安定した種卵の生産がフランゴ飼育に不可欠、と技師達が知恵を絞り、種卵生産に、エサ価格の影響が一番大きいと、エサ代が上がれば種卵買上げ価格も上がるよう、固い約束がされていて、これ故に種鶏家は安心して鶏の飼育に専念できた。

 同じ地域に暮して仕事をするので日常生活でも自然と鳥飼いの人達と交際の輪は広がる。

 或る時、種鶏家の家族が亡くなった。葬儀は自宅で済ませ、街郊外のお墓に埋葬するので参加した。 

 先頭は霊柩車。ゆっくりと走り出す。続いて家族、親戚と続き、私は五番目、後に付いた。時期は正に乾期。土埃はひどく、車が走るに従い前方は徐々に見通せなくなる。エサ工場の前、道は二股に分かれている。土埃は最悪で、どの道を行ったのか分からない。 

 躊躇は出来ない。何時もの道、右側を選んだ。そのまま前進を続けると、前方が見渡せたが先行車の一団が見えない。それでも街道まではゆっくり走った。前方を見る。道の起伏がこの際邪魔で、遠くまで見通せない。車のスピードを上げ、頂上まで走る。しかし、何も見えない。スピードが遅すぎた、と考えアクセルを力一杯踏み込む。走るほどにスピードは上がり、これまでフスカをこれ程早く走らせたことはない程走った。車は狂ったようにスピードを上げる。後続部隊も同調する。街の中を駆け抜け、やっとお墓の駐車場に着く。霊柩車が見当らない。後続車も次々と息せき切って到着し、「どうした、どうした」と口々に訊ねる。一体何が起こったのか不安な気持ちで時間が経過する。

 左側の道を選んだ先頭隊。街道に出たが後ろに車が続かない。ゆっくり、ゆっくり走った、という。舗装後は、もうあのような珍事は二度と起こるまい、と思われる友人の答えでした。