コチア産業組合のスーパーで、日系人向け商品の購買係りとして三年程働き、仕事に愛着と意欲を募らせていた頃、解雇を言い渡されてしまいました。サラリーマンにとって、職を失う事は一大事です。収入が途絶え、明日からどうやって食べていくのかと、不安が膨らんで来ます。
農業ではやりたいこと、やれることはいずれも現実は厳しく、難しく、一家を支えて行く腕はないと止む無く勤め人になりました。頼みとする「親方」?コチア産組が傾くとはこれは予測せぬ事態で、もう一度しっかりと経済的に立て直しを計らないと、終着駅はまだまだ遥か彼方でした。
解雇予告を受けても、年齢の特典で次の仕事を見つけるまで六十日の猶予があり、加えて今の仕事は商品を購入しても、コチアは資金不足で支払い不可能、出社するに及ばず、家庭待機せよとの通達です。
時間はたっぷりあるので考えました。「寄らば大樹の蔭」とコチアを頼っていたのが裏目に出るようなら、独立するのはどうだろう。修得したマッサージの技術で、金は稼げないか?現実的な問題として、それ以外に何が出来るのか?時間の経過と共に、マッサジスタとしての独立が、唯一の選択肢のように気持ちの方は除々に固まっていきました。
私が職を失うというニュースは、業界内ですぐに広がったようで、懇意なベンデドール(問屋)から、真に貴方みたいな人を捜している人が居るので、是非その人に会ってくれないかと頼まれ、二度が、三度と度重なると、これは自分で直接会って断るしかないとでかけました。
当時日本からの食品輸入は、時代の流れが後押しして、急速に伸びている時期でした。それでいて、日本食のわかる人は数少なく、私はピッタリの人間でした。断るつもりで出かけたのに、反対に頼み込まれ、その会社で働くことを約束させられてしましました。
コチア産組でも、日本からの食品輸入は、コンテナで二?三ヶ月毎に取り寄せ、傘下のスーパーで販売していましたが、この会社はサンパウロ市内の商店相手に輸入し、取り扱う食品の種類はコチアを遥かに越え、その数の多さは驚く程でした。輸入された商品を販売する、次回の食品輸入の計画をたてる、この二つの仕事に時間が過ぎ去るのがこれまで以上に早く感じられた時期でした。
二年ほどして、老後の年金の積み立ては、自分で支払わなければ、コチア産組のように、会社がしてくれるのではないことに気付き、急いで手続きを開始しました。この時点でFGTS(フンド・デ・ガランチア:勤続年数補償基金)の方はないものと諦めていました。何故なら私の会社での役職は理事で、それは労働手帳に記載無しに働く便法で、会社には都合の良い雇用契約でした。三年半後この会社を辞め退職後、あんたのFGTSの残高が、会社に届いているから取りに来たら、と同僚から言われ、受取りに行きました。かなりのまとまった金額がそこに記載されていました。再度就職することもないので引出すつもりで最寄りCAIXA(連邦貯蓄銀行)に書類を揃えて出かけました。それが気苦労の始まりとは知らずに。
対応してくれた銀行員は残額を確認し、この銀行に口座があるかと質問し、無いと言うと是非あけるようにと言うので、既に口座のある一ヶ所で十分と答えると労働手帳を出せと言います。そこには働いたという記載は全く無く話がややこしくなります。FGTSは、普通は労働手帳に記入され、それがスタートなのに私はそんな契約で働いていませんでした。幾ら説明しても労働手帳に記載のない場合支払う訳にはいかないと、それ以上話が発展しません。幾つかのCAIXAを訊ね、説明し、客に親切な銀行員に巡り合える好運を期待しましたが全てだめでした。私の名前で積み立てられたお金を引き出そうとするのに、それが出来ない残念さは全く理不尽なものでした。ところが働いた会社の社長は、もうずっと昔に引き出したと話してくれました。全く方法が無い訳ではないのです。調べて解ったことは、理事なるものは企業が総会を開いた時に承認され、任期を勤める習わしで、総会の議事録には就任と退職が明記されているとのこと。早速議事録のコピーをお願いしました。わたしの名前がありました。これで、お金は引き出せると思ったのは早計で、就職時の記載はありましたが、退職した時の日付がありません。銀行もその一点を指摘し、これでは何時辞めたのかわからないと突っ撥ねます。銀行は書類を受理する役で、私はその銀行のお金を出してくれと頼んでいる訳ではないのです。
結局、次期総会の議事録に退職日を記入してもらうことをお願いして、その年の総会が開かれるまで十ヶ月を唯待ちました。
そして現実には、何も記載してもらえませんでした。過去に働いた人間の退職日を後日議事録に載せる必要性は企業にとつて何のメリットも無いことです。
真に八方ふさがりでした。そんな話を家庭でなにげなくしていると近くに居た息子が聞き咎め、どうして今まで自分に話してくれなかったのかと言います。親からみるとまだ子供だと思っている息子に、解決策があるとは考えられなかったのですが、そう言われて隠して置くことでもないので、これまでの経過を話しました。
息子いわく「僕は銀行のジエレントン(部長)と友達なんだよ。電話をいれとくので二日後に会いに行って御覧」自信がありそうでした。必要書類を持ってパゥリスタにある銀行に行き会いました。女性でした。書類に目を通し「貴方が理事就任の日付けはここに、四年後貴方の職責に他の人が就任しています。これは貴方が退職したと考えられます。この書類で十分です。一週間以内に貴方の口座にお金は預金されているはずです。確認して下さい」。言葉の通り二年以上どうしても取り出せなかったあのお金が、息子の電話一本で解決したのです。
ブラジル人社会での友達という絆の大切さ、力強さを改めて再確認させられ、息子をみなおした一件でもありました。